| あなたへのメッセージ 愛のレッスンは二種類あります |
先日友人とあれこれ話していて、お金とご飯は愛やそれに近いものの表現としてよく使われているのだ、と改めて感じました。
ご存じの方が多いと思いますが、痴呆が入ってきた時に出てくる戯言は、
「ご飯を食べさせてもらっていない」と、
「お金を取られた」です。
ほとんどがこの二つのバリエーションに行き着くように思います。
ご飯とお金は、生きていく上でとても大切なものです。
様々な能力を喪失していく時、不安にかられている時、
ご飯が食べられてひもじい思いをしなくてすむか、
何とでも交換できるお金は十分にあるか、
が心配の中心になっていくのですね。
この「ご飯とお金」は別名「愛」なんです。
そこから連想して、今日は「愛のレッスンには二種類ある」ことをお話します。
最初の初級レッスン
心理学を勉強し始めた頃、ある方の著書に載っていたのですが、
愛というものは、それを受け取る側が愛だと感じられなければ、愛とは言えない。
というような意味の言葉でした。
今でも覚えているのですが、その言葉は大きな驚きと納得でした。
思春期の頃、
親が愛だと押しつけてくるものが、私には過保護で過干渉で、苦しくて苦しくてたまらなかったので、それは愛ではなのだ、と分かった事で私はとても楽になりました。
ああ、それは愛ではなくて、過保護で過干渉で侵入なんだ。
愛とは侵入しないものだし、押しつけてくるものでもないし、
その通りにしなければ怒りが刺さってくるものでもないのだ。
相手の気持ちや立場・感受性を考えずにするものではないし、
心配や恐怖から、そうならないように予防線を張るものでもないし、
執着から手放せない物でもないし、
情に流されてしてしまうものでもないし、
自分のプライドの満足のためにするものでもない。
そんな事に気づいていった時期がありました。
初級レッスンにいる人にとって、
愛は、相手に(自分に)愛として伝わらなければ、愛とは言えないです。
特に赤ちゃんや小さな子どもは、はっきりと愛されていると感じる必要があります。
幼少時代にどのくらい愛を受け取る事が出来たか、で、
自己肯定感が変わってきます。
自己肯定感が低いと、人生は難しくなってしまいます。
勿論、子どものわがままを通す事は愛ではないです。
ただ甘やかす事でもないです。
このあたりの説明は、あえてしなくてもいいですよね?
上級レッスン
少し前のメルマガで、父の事を書きました。
http://www.fukumoto-izumi.com/3energy/merumaga/080714.html
この時に私が学んだのは、
相手を理解するとか受容するとか、話を聞くとか気持ちが繋がるとか、
そういう「愛」に近いものが何もなくても、
父は「愛の人」だった、という事でした。
若い頃の私にとって、相手から受け取るものが心地よいかどうか、
私にフィットするかどうか、で判断していたのですが、
上記メルマガの体験から、最近の私はもう一つの視点を手に入れました。
相手の行為の中に愛を見つけられるかどうか。
それがどんな形に変形され包装されていても、
本質が愛なのだと気づけるかどうか。
それを私が愛として受け取れるかどうか。
です。
そして更に言うと、
愛の与え手としての自分が、どのくらいエゴを減らして相手の状態に合わせてそれを表現できるのか。
愛の受け手としての自分が、不快な言動からどのくらいその本質にあるものを発掘できるのか。
という事なのだな、と最近感じています。
上級レッスンその2
愛やそれに近いものを表現する時に「お金と食べ物」が使われやすい、と最初にも書きました。
可愛らしい子どもを見て、何かお菓子をあげたくなる事ってありますよね。
何も考えずにただ、可愛いな、何かお菓子ないかしら? と。
むやみに孫に甘いおやつを与える祖母は嫌われたりしますが、
本当はただ純粋に愛を表現したいのでしょうね。
ちょっと変な例になるかもしれないですが、
身内や誰かの借金を肩代わりして返済している人がいます。
実は私も事情があって自分が作ったのではない借金を返していた事があります。
最初は様々な気持ちが渦巻いて、被害者意識と怒りとで苦しかったのですが、
その感情を徹底的に整理していくと支払うのがとても楽になって、喜びが湧いてきました。
その人は私に愛のレッスンを授けてくれたのでした。
いろいろな話を聞きます。
年老いた両親がほとんど身動きできない状態で同居しているのに、
ご飯の準備をせずに旅行に行ってしまう若夫婦。
作った野菜を毎月送ってくれる親。
宅急便代を考えると買うほうが安いのに。
父が亡くなった後の遺産相続のもめ事で、
お金をもらった後に母親を家から追い出した子ども。
無くなった両親の残した借金を払って歩いた息子
(今の法律では払わなくてもいいのですが)
親から借金を申し込まれるのがイヤで、行方をくらました人。
以前の私には、マイナスの状況にはエゴと我欲とこじれた関係しか見えなかったのですが、
お金とご飯は愛なのだ、と思ってみると、
そこに別の風景が見えてきました。
上に書いた例はどれも、愛のテーマなんです。
何かが起きた時、そこにある愛・その言動の根底にある愛を受け取る事ができなくて、
誤解が誤解を生み、関係がねじれてしまうと悪循環が始まります。
愛を受け取る事が出来たとしたら、しなくてすむ争いごとがどんなに多いことか。
そう思いませんか?
でも、確かにこのレッスンはハードルが高いです。
愛のレッスンの仕方
スピリチュアルな世界では、私たちは愛の存在だし、愛がなければこの世に生きている事が不可能なのに、それをなかなか受け取れない、実感できないんです。
愛を受け取りやすい形で表現できないから、特に初級レッスンにいる人はそれを愛として受け取れない。
受け取れないし実感できないから、そこに怒りや恨み、妬みなどが生まれてしまう。
どんどんこじれてしまう。
私たちが三次元で日常的に見るのは、そういうものたちです。
愛のレッスンというのは、
まずは相手に分かりやすい愛の形で表現して、相手に受け取ってもらうレッスンと、
こじれてしまった関係を整理して、その根底にある愛を受け取るレッスンと、
二つがあるのだな、と私は感じています。
ではどうしたらいいのでしょうか?
まずは、関係がベストではない人に対して、
その人が一番受け取りやすい形を想像して、相手にそれを与える練習をすること。
もう一つは、関係がベストではない人との関係で、
愛を持って相手とその行為をみつめてみる練習をすること。
なぜならあなたは愛の人だから、出来るはずです。
この二つから始めてください。
関係がベストではない、というのは、親友ではないけれど友人だ、というような人の事です。ものすごくこじれてしまっている人を最初から選んだりしないほうがいいですよ。
いい変化を体験できたら、少しづつ関係が難しい人にしていってください。
ぜひやってください。
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